ログイン魚を獲って帰る途中、保科と一緒になった。
「流様、鍋などを調達して
「あの娘、本当に身寄りがないのですか?」
「え?」 どきっとした。 それは考えたくなくて無理矢理頭の隅に追いやっていたことだ。 「どういう意味だ?」 「あの娘の話し方、山奥の村の子供のそれではありませんよ。それなりに身分のある家の娘なのでは?」 身分の高い家なら親族もいるだろう。 格式のある家柄は家を存続させるために子供を沢山作るものだ。 水緒の祖父母、あるいは伯父、伯母がいてもおかしくはない。「一人に出来ないというのなら、あの娘の親族を捜しましょう。話し方でどの地方の人間かは分かります。それなりの家なら警護の人間もいるでしょう」
「……分かった」 そこまで言われたら駄目だとは言えなかった。 こんな山奥で化け物に襲われる心配をしながら暮らすのが幸せなわけがない。 水緒のことを思うなら親族を捜した方がいいに決まっている。それでも……。
心の中に重くて大きい石が置かれたような気がした。
「わぁ! お鍋! お茶碗! お米! あ、針と糸もある!」
水緒は嬉しそうに顔を輝かせた。 「保科さん、有難うございます!」 「いえ」 「私もね、草、一杯摘んだの。これから夕餉を作るね」 水緒は嬉々として台所に立った。 「流様」 保科が流に声を掛けた。 自分達も食事にしようというのだ。 「水緒、ちょっと出てくる」 「はい、行ってらっしゃい」外で食べて戻ってくると水緒がにこにこして待っていた。
「夕餉、出来たよ」
「私達は……」 言い掛けた保科の脇腹を突いて黙らせた。 「三人分、あるのか?」 「うん、ちゃんと作ったよ」 「そうか。じゃあ飯にしよう」 流が板の間に上がって座り込むと保科も渋々従った。 水緒は三人分の器に身をほぐした魚と草を入れたお粥をよそった。 「お代わりもあるからね」 その粥は前に水緒の家で食べたのと同じ味がした。 水緒の家を出たのはそんなに前ではないはずなのに懐かしかった。翌朝、水緒が作った朝餉を食べ終えると保科に呼ばれた。
水緒は竈で器を洗っている。 その音を聞きながら板の間に保科と向かい合って座った。「流様、読み書きはどれくらい出来ますか?」
「簡単な字なら」 何しろ母に教わったのだから大分前だ。 「それでは、まずこれから始めましょう」 そう言って古びた本を取り出した。 どうやら昨日はこれを調達に行っていたらしい。背後に水緒の気配を感じた。
洗い物が終わったのだろう。 後ろから流が持っている本を覗き込んでいる。「読めるか?」
流は水緒に本を見せた。 「うーん、少しなら」 「女はその程度で十分です」 保科が言った。 「そうか?」 読めるものなら読めた方がいいと思うのだが。 「下手に賢いと嫁の貰い手がなくなります」 「え!」 水緒が慌てて後ろに身を引いた。 「心配しなくても水緒なら貰い手はいくらでもいるだろ」 「そ、そうかな。でも、やっぱり、漢字読める子なんて生意気だよね。私、お掃除する」 水緒は逃げるように竈の方へ行ってしまった。 流は仕方なく本に目を落とした。水緒と一緒なら勉学も悪くないと思ったのに……。
水緒が食事を作るようになってから流は兎や雉を喰わなくなった。
流は生の兎や雉より料理された食事の方が好きだったからだ。 保科には量が足りないらしく、流が魚を獲りに出ているときに動物を捕まえて喰っているようだった。ある日、流が魚を持って帰る途中、視線を感じた。
咄嗟に身構えたが襲ってくる気配はなかった。数日過ぎた。
相変わらず見られているような感じはするが襲ってくる気配はない。朝餉を終え水緒が食器を洗っている時、
「流様、お気を付け下さい」 保科が小声で言った。 「分かってる」 最可族なのか新しく村の人間が呼んだ鬼なのかは分からない。 もしかしたら水緒に引き寄せられた別の鬼なのかもしれない。 とにかく誰かが流達の様子を窺っているのは保科に言われるまでもなく気付いていた。 しばらく水緒は外に出さない方がいいだろう。 草が無くても魚と米さえあれば大丈夫だ。 なんなら流が草を摘んでもいいのだ。「水緒」
流は水緒に声を掛けた。 「何?」 「しばらくこの家から出るな。草を摘みに行くのも駄目だ」 「うん、分かった」 水緒は不思議そうな顔をしたが素直に頷いた。その日、流が魚を獲って帰ってくると水緒が本をぱらぱらとめくっていた。
「あ、お帰りなさい! 勝手に見てごめんね」
水緒が慌てて本を元のところに戻した。 「一日中家にいたら退屈だろ。お前も保科に習えばいいじゃないか」 「でも……流ちゃんは、生意気だって思わない?」 「思わない。漢字が読めるくらいで生意気だなんて思う方がどうかしてるだろ」 「そう」 水緒は安心したように微笑んだ。 そのとき家の外に保科の気配がした。 帰ってきたのだ。「女だって字は読めた方がいいし、計算だって出来た方いいぞ」
流は保科に聞こえるように言った。 「じゃあ、私も習おうかな」 「そうしろよ」 「あ、保科さん、お帰りなさい」その日から水緒も一緒に漢字や計算を習い始めた。
保科は女に知識など必要ない、などと言っていた割りには水緒にも丁寧に教えている。 流は最近になってようやく保科に気を許せるようになった。 保科は頭が硬いが悪いヤツではない。 真面目なだけなのだ。流のことを大事に思っていると言うことも分かった。
自分の主の息子だからではなく流自身を思ってくれている。 だから危害を加えられるかもしれないと警戒する必要はない。 それが分かったから気を許せるようになった。 流のことを大切に思っているから、流の気持ちを尊重して水緒を側に置いておくことを許しているし喰おうとしたりもしない。 もっとも保科はかなり我慢しているようだ。 外で動物を喰ってくるのも水緒の代わりなのかもしれない。朝、素振りをしていると水緒が手拭いを持ってやってきた。「そろそろお稽古の時間だよ」 流は水緒から手拭いを受け取ると汗を拭いた。 そこへ小森がやってきた。「桐崎殿、水緒さん。おはようございます」「おはようございます」 水緒が礼儀正しく挨拶を返した。「お二人は許嫁だったのですか」 小森の言葉の意味が分からなかったらしく水緒は訊ねるように流を見上げた。 おそらく桐崎は縁談を持ち掛けてきた家に流と水緒は許嫁同士だから、と言って断ったのだろう。「そうだ」 流は即答した。「これは知らぬこととはいえ失礼しました」 どうやら小森の親が水緒に縁談を持ち込んだようだ。 水緒は相変わらず小森の言ってることが分からないらしい。「水緒、そろそろ時間だ」「あ、そうだった。失礼します」 水緒は流に手を振ると歩き出した。 流が道場に入ろうとした時、中で怒声がした。「そこもとが物でつってお和を籠絡したのであろう!」 石川が今にも掴み掛かりそうな勢いで怒鳴った。「お和は貧乏御家人より金持ちの旗本を選んだだけだ」 奥田が嘲笑った。 流は眉を顰めた。「お和殿も贈り物には弱かったようですね」 小森が流の隣で言った。「どういうことだ?」「お和殿は元々石川殿の幼馴染みだったのです。内々にではあったが言い交わしていた様子。そこに奥田殿が割り込んだのです。何でも高価な櫛や簪などで贈り物責めにしたとか」 小森がそう教えてくれた。 流は殴り合いの喧嘩になりそうな二人の間に割って入った。「喧嘩なら外でやれ。もう稽古が始まる」「こちらは喧嘩などする気はない。石川殿が勝手に怒鳴り散らしているだけのこと」「勝手なのはどちらだ!」「うるさい、出ていけ」 流は静かに二人に向かって言った。「桐崎殿もせいぜい水緒殿を取られぬようにな!」 石川が
人混みを抜け二人は人気のない路地に入った。 その路地を抜けた先の空き地の隅に他の木々に紛れて小さな桜が一本だけ生えている。 ここは二人だけの花見の場所だ。 初めて水緒と二人だけで花見に来た時、道に迷って入り込んだのがここだった。 何とか上野への道を探そうと地図と首っ引きになっている流に、「流ちゃん、ここでいいよ。桜、ちゃんと咲いてるよ」 と言った。「たった一本、それもこんな小さい木だぞ」「大きくても小さくても桜は桜だよ。私にとっての流ちゃんと同じ」 水緒はそう言って微笑んだ。 それは流にとっての水緒も同じだった。「ね、ここを二人だけのお花見の場所にしよう。ここなら静かに見られるし」「水緒がそれでいいなら」 確かに水緒しかいない場所なら気を張り詰めている必要がないから流としても異存はない。 それ以来、二人は毎年ここへ来ている。「この木、大きくなってきたね」「そうだな」「あのね、私の錦絵を描きたいって言われたの」 水茶屋の看板娘を錦絵に描くことは良くあった。 店の方も宣伝になるので快諾する。「一枚くれるように頼んだの。流ちゃん、貰ってくれる?」「ああ」 江戸中から水緒を見に男どもが集まるのかと思うと不愉快だが引き受けてしまったのなら仕方ない 流が辺りを見回した時、桜の背後の崖の上に白い花が咲いてるのが見えた。 白い色が水緒の純粋さを、風に揺れる姿がか弱さを表しているように思えた。 流は崖に取り付いて上った。「流ちゃん?」 流が花を取った途端、足場にしていた石が外れて転がり落ちてしまった。「流ちゃん、大丈夫!?」 水緒が慌てて駆け寄ってきた。「これ」 流は花を水緒に差し出した。「私に? 有難う。流ちゃんからの贈り物なんて嬉しい」 水緒が本当に嬉しそうな笑顔で言った。 あまりの喜びように流の方が戸惑った。「雑草だぞ。
流はここ数年で剣の腕が上がった。 勿論まだまだなのだが桐崎の化物討伐に同行出来るくらいにはなった。 討伐は大抵桐崎、小川と三人で行く。 化物が現れるところで待ち受け、討伐対象がやってくると小川が結界を張って敵に逃げられないようにする。 討伐の依頼人は対象の化物に狙われていることが多い。 当然敵は依頼人の前に現れる。 小川は依頼人にも結界を張る。 化物を倒したはいいが依頼人も死んでしまった、なんてことになったら報酬がもらえなくなるからだ。 それに依頼人を死なせた、などという事になったら当然評判が落ちて依頼してくる者もいなくなってしまう。 今回の依頼人は大身の旗本だった。 しばらく前から夜になると化物が屋敷に現れるようになったという。 屋敷には結界が張ってあるので化物が入ってくることはないが建物の周りを彷徨かれては夜、外出することもままならないし外聞も悪い。 と言うことで退治の依頼が来た。「拙者がここにいる必要は無い。そうであろう?」 屋敷の庭で依頼人の長男が中に戻りたそうにしながら何度も繰り返している。 事前の調査の結果、化物が狙っているのは依頼人の長男だと言うことが分かったのだ。 それで囮として庭にいてもらうことにした。「来た!」 流が逸速く察知した。 次の瞬間、庭に何かが飛び込んできた。「出た!」 長男が怯えた様子で後退りした。 頭が三つある犬の化物だった。 三頭、いや、もっとか。 複数の犬の怨念が集まったものだ。 化物は真っ直ぐに長男に向かっていく。「うわあああああ!」 長男が頭を抱えて蹲った。 化物が長男の直前で結界に弾かれる。「この犬どもに心当たりがありますな」 その言葉に、長男がびくっとした。 桐崎達は何故犬の化物がこの男の前に現れたのか分かっているようだ。「こいつらを斬りま
流と水緒が江戸に来て五年の歳月が流れた。 流は水緒の働いている水茶屋に着くと足を止めた。「水緒」 流が声を掛けると水緒が振り向いた。「あ、流ちゃん、もうすぐお終いだからそこに座って待ってて」 前掛けをした水緒は茶碗や団子の載っていた皿を持って店の奥へ向かう。 流は毎日水緒の送り迎えをしていた。 贄の印がなくなったとは言え供部であることに変わりはない。 一人で歩かせるのは危険だ。 それに水緒の送り迎えでこう言う盛り場を歩くようになって分かったのだが、危ないのは何も妖だけではなかった。 警戒する必要があるのはむしろ人間の方だ。 水緒は可愛いから特に危ない、と桐崎も水緒の送り迎えをするように勧めた。「仕事は大変じゃないか?」 店を後にすると水緒に訊ねた。「大丈夫。お店の人も優しい人だし、お客さんもいい人ばかりだよ」「そうか」 大変だと言うようなら無理にでも辞めさせようかと思ったが、今のところ上手くやっているようだ。 流は腰に大小を差していた。 最初は歩き辛かったが慣れるとそれほど邪魔にはならない。 武士は二本差しで歩かねばならないらしい。 一本しか差していない者がいるから桐崎に聞いてみたら牢人などは一本しか持ち歩かない場合もあるとのことだった。 流は武家だから二本差して歩くように言われている。 桐崎は流と水緒を武家として育てたいらしい。 言葉遣いなども武家らしくするように言われていたが、流はともかく水茶屋で働いている水緒はなかなかそうはいかないようだ。 武家の人間が水茶屋で働くわけにはいかないので水緒は普段、町娘の格好をしていた。 水緒が町娘の格好をするなら流も町人の格好をしたかったのだが、町人は帯刀が許されていないのでダメだと言われてしまった。 最初、流は人間の身分などどうでもいいと思っていたが、街に長く暮らしていると人間の世界では守らないといけないらしいと言うことが分かってきた。
看板が掛かっており、そこには「よろず御祓い承ります」と書かれていた。 桐崎が玄関でおとないを請うと、 「おお、生きて戻ったか」 総髪の男が出てきた。 髪や髭に白いものが混じっているが、それほど年は取ってなさそうだ。「流、水緒、この人は小川禅定殿だ」 桐崎は小川に流と水緒を紹介した。 「その娘か?」 「印がついてるのはこの子だ。それとこっちの坊主も頼む」 「え?」 流と水緒が同時に桐崎を見上げた。「その坊主が鬼か。長くこの仕事をしているが、子供の鬼というのは初めて見たな。鬼は生まれたときから大人なんだと思っていたぞ」 小川はそう言って笑った。 「おっさん、どういうことだよ」 「いや、鬼避けの結界が張られてるところは意外と多いからな。そう言うところに入れないと困るだろ」 確かに入れなければ鬼だとバレてしまう。 そう言うところを避けようにも流には結界が張ってあるかどうかは分からない。「そんなことが出来るのか?」 「まぁ、儂に任せなさい」 小川はそう言うと奥へと入っていった。 流達が後に続く。 通された部屋は変な匂いがした。「なんかいい匂いがするね」 「これは香の匂いだ」 桐崎が説明した。 小川がごちゃごちゃした絵――曼荼羅というそうだ――の前に座り、水緒に対座するように言った。 水緒が前に座ると、小川は間に置かれた白い台の上の灰が入った器で香を焚いた。 ぶつぶつと何やら言っていたかと思うと、突然、 「喝!」 と怒鳴った。 その瞬間、 「っ!」 水緒が胸元を押さえた。「水緒!」 思わず流が立ち上がった。 「心配いらぬ。印は消えたぞ」 水緒はそっと自分の胸元を覗いてから流を見上げた。 「ホントだよ、流ちゃ
「おばさん、私に家事を教えて下さい。よろしくお願いします」 水緒はお加代に頭を下げた。「はいよ」 流達はお加代が持ってきた桶の水で足を洗って家に入った。「わぁ、猫だぁ!」 水緒は居間で丸くなっていた猫を見付けると嬉しそうに近付いた。 ここまで来る途中の宿場町で何度か猫を見掛けていた。 初めて猫を見た時、水緒は顔を輝かせて近付いていったが逃げられてしまった。 水緒はがっかりしながらも桐崎に「あの動物は?」と訊ねて「猫という生き物だ」と教わった。 流と猫の目が合った。 ただの猫じゃない!「水緒! そいつは……!」「それがしの飼い猫でな、ミケというのだ」 桐崎が流の肩に手を置いて言葉を遮った。 そうか……。 化物退治が仕事の桐崎が化猫に気付かないはずがない。 危険はなさそうだ。「こんにちは、ミケちゃん。私は水緒。よろしくね」 水緒がそう言って撫でると、ミケは気持ち良さそうに目を閉じた。「そういえば旦那を訪ねてきた人がいましたよ」「山本殿だろう。家に着くのは今日になると言ってあったのだが、よほど急いてるのだろうな」 桐崎は居間に腰を下ろした。 お加代が台所へ向かうと水緒も後に随いていった。 流が水緒の後に続こうとすると、桐崎が、「流、お加代さんは茶を入れに行っただけだ。すぐに戻る。お前も座りなさい」 と言った。 一瞬迷った後、桐崎の斜め向かいに座った。「旦那、お待たせ」 お加代はそう言って盆に載せて運んできたお茶を桐崎の前に置いた。「はい、流ちゃん」 水緒がお加代の真似をして流の前に膝を突くとお茶を置いた。 旅籠に泊まる度に出されるお茶を飲みながら、なんで普通の水ではなく色と味の付いたお湯を出すのかと思っていたが、水緒が入れてくれたものは美味かった。 お茶を出すと水緒はすぐにお加代と共に台所へ行ってしまった。 物音が聞こえるから夕餉でも作っているのだろう。「水緒の印って言うのはいつ消すんだ?」 桐崎は江戸に着いたら、と言っていた。「野尻宿から文を出しておいたから、後は向こうを訊ねるだけだな」「ならこんなところに座ってないで早く行こう」 江戸は中仙道ほど鬼は多くなさそうだが印を消せるなら早い方がいい。 ミケだって桐崎が飼って